タイトル

看護師 求人に懸ける

パチンコ産業の市場規模は年間約三十兆円ですから、医療費とほぼ同じぐらいです。
葬儀関連の費用も十数兆円といわれます。
日本の国民負担率(税金と社会保険料の和がGDPに占める比率)は、世界的にみるとかなり低いところにある。
医療にもっと多くの資源を投入する余裕はあるはずです。
しかも国民は現状に満足せず、良質な医療サービスを求めているのです。
八〇年代初頭以後の「世界一の医療費抑制政策」(医療経済学者・二木立氏の言葉)を支えてきた論理は、今となっては完全に正当性を失っています。
患者は消費者ではないイギリスではサッチャー政権による長年の医療費抑制政策で、医療従事者の士気が崩壊しました。
入院待ち患者が百万人を超え、手術可能と判断された肺がん患者の二〇パーセントは手術を待つ間に手遅れになる。
ある一日の救急医療の調査によると、救急外来で入院が決まってから病棟に移るまでに平均で三時間三十二分、最大七十八時間もの間得たされていた。
三日と六時間もストレッチャーの上で待たされる。
これでは得たされたというより放置されたというべきでしょう。
こうした状況に患者は怒り、医療従事者への暴力が頻発しています。
二〇〇〇年英国犯罪調査によれば、看護従事者は保安要員に次いで二番目に暴行を受ける危険度が高い。
暴力(言葉による暴力を含めて)を受けるNHS(国民保健サービス)スタッフは、年間十万人に上っている。
NHSの職員数は百万人で常勤職員が八十万人。
患者に接している職員でいうと、三~四年に一度は暴力を受けている勘定になる。
いかにイギリスの医療現場が荒んでいるか、容易に想像できます。
多くの医師がオーストラリア、カナダ、アメリカに移住しています。
このため、ブレア政権は二〇〇〇年に五年間で医療費を五〇パーセント増やすと宣言しました。
しかし、いったん医師の士気が崩壊すると、費用を増やしても元には戻りません。
〇五年の五月、イギリスの総選挙の前に『ランセット』(世界で最も権威のある臨床医学雑誌)は社説で、政治家は患者を消費者に見立てて、「消費者中心の医療」を声高に唱えているが、これは間違いだと主張しました。
イギリスの全政党が医療の改善を阻んでいる最も重要な問題、すなわち、「医師の士気の壊滅的崩壊」に焦点を当てることに失敗したと表紙に書きました。
ランセット誌の主張はこうです。
「正しい市場とは、競争原理が機能し、情報へのアクセスが平等でふんだんにあるという前提で、消費者が自ら参加するゲームである。
医療では誰もが平等に情報を得て、しかも、それを正しく理解できるなどということはかつてなかったし、未来永劫ありえない。
医療はゲームではない。
医療は社会的善であり、公平でなければならない。
患者は消費者ではなく、純粋に、ただ単に患者なのである」競争市場では、企業は他の企業や消費者に遠慮することなく最も収益が多くなるよう価格を設定します。
消費者は自分にとって最も有利な財を購入します。
企業は収益が多いと見込めれば参入し、収益がなくなれば、退出することが許されています。
「消費者中心の医療」では、個々の患者が自分の利益を言い募ることを正当化します。
ただし、市場原理のもとでは、高度なサービスには需要が集中して値段が跳ね上がるので、自分の財政状況を考慮してほどほどの要求にとどめざるを得なくなる。
ところが、描イギリスや日本ではサービスに対する値段が極端に低く抑えられているため、常にフル操業していないと採算がとれない。
このため、「人手不足」「超多忙」が強いられることになった。
日本やイギリスでは医療サービスの総量が足りていない。
つまり、個々の患者の気ままな要求に応えられる余裕はないということです。
開放系倫理と閉鎖系倫理日本はバブル崩壊後、大きく進路を変えました。
アメリカ型の市場原理主義が賞賛され、頑張ったものが報われる社会が良い社会だとされるようになりました。
小泉政権以降、この傾向がさらに強まり、派遣社員が増え、国民の収入格差は大きくなった。
市場原理主義の信奉者が多数を占める経済財政諮問会議が、政策決定に大きな影響力を持つようになりました。
医療も例外ではありません。
経済財政諮問会議の主要メンバーは、公的保険で提供される医療を受けつつ、保険外の医療を自費で支払う「混合診療」を推進しています。
これに対し、日本医師会は、「混合診療」を進めると、保険診療で提供される医療がどんどん少なくなり、受けられる医療に大きな格差が生まれてしまうと反対している。
いずれにしても日本の医療が崩壊の危機にあり、現在の医療費では国民の要求する水準の医療が提供できなくなっています。
日本の医療は大きな岐路にあるのです。
行き先は原理的には大きく二つ。
医療を現在のように「公共財」として運営し続けるのか、あるいは、市場原理にゆだねられるべき「通常財」として運営していくのかです。
この二つの中間的な政策もあろうかと思いますが、理念としてはこの二つのいずれかです。
最終的には国民が決めるべきことだろうと思います。
しかし、市場原理にゆだねるということに日本人が耐えられるのかどうか、よく考える必要があります。
東京大学国際保健学元教授の大井玄氏は「環境問題をどう考えるか」(『サングラバ』〇四年八月二十五日号所載)、ならびに、『痴呆の哲学-ぼけるのが怖い人のために』(弘文堂)で、「開放系の倫理」と「閉鎖系の倫理」という考え方を提唱しました。
要約して説明します。
倫理は、ある個人、あるいは集団の生存確率を最大化する戦略指針に由来する。
生存のための努力が世代を超えて薫習されることで、倫理が形成されます。
当然、地理的条件によって倫理には違いがでてきます。
アメリカの倫理は、かなり特殊な条件下で成立しました。
十七、十八世紀のアメリカは、人間の活動に比べてスペースが極めて広い上に、移動の自由があり、資源が豊かで、異なる背景を持つ人間との接触が多い場でした。
宗教的乳轢からイギリスを逃れ、アメリカに移住したピューリタンは、広大な新天地に、場の包容力が人間活動によって影響を受けないという印象を持ちました。
ここではあからさまな競争を通じた生存が可能で、自律、欲望追求と移住の自由が尊重される。
個人の利己的欲望を追求する努力の総和がそのまま社会の利益であると理解され、「自我拡張的意識」が形成されます。
こういう場所での自己実現とは、自己の才能や欲望の具現化です。
典型的な閉鎖系の場として、江戸期の日本が挙げられます。
閉鎖系の場では移動が制限され、異文化的人間との交流が少ない。
貧しく狭い場所で、少ない資源を奪い合うと共倒れになります。
こういうところでは自我縮小的心理が形成されます。
謙遜、自責、協調が重視され、対立や競争を避けるようになる。
自己の欲望は抑制されるべきもので、自己実現とは他者から期待された自分の役割を果たし、人間関係を良好にすることです。
「足るを知る」「分を知る」という言葉に象徴されます。
大井氏のいう「開放系の場」は、歴史上めったに出現するものではありません。
そのような恵まれた条件は、新大陸で先住民を殺我して土地を奪うという条件で、はじめて成立したのだと思います。
歴史的に考えても、ほとんどの民族は「閉鎖系の場」で生活していたのではないでしょうか。
市場原理の医療の怖さ私の問題意識を実感していただくために、アメリカの医療がどのようなものかを紹介します。

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